「南方有贛巨人、人面長臂、黒身有毛、反踵、見人笑亦笑、脣蔽其面、因即逃也。」 ――『山海経』海内経巻 ―― 山越凜鬼は山魈である。遥か昔、中国の大地を縦横に駆け巡っていたが、やがて海を渡り日本へと流れ着いた。歳月を重ねるうちに人を喰らうことも少なくなり、その性質は山魈から山童(やまわろ)へと変じていった。人間の友人までできるようになったが、それゆえに妖怪士兵計画の標的となってしまう。 妖怪士兵計画は中野機関のもう一つの狂気じみた構想である。実行者たちがとうに提案者・井上博士の当初の目的から逸脱し、手段そのものを目的化してしまっていた問題はさておき、計画そのものは一定の成果を上げていた。研究者たちは妖怪の強靭な肉体を利用し、人体――いや妖体改造を行い、呪力義肢によって妖怪の妖力を圧し狂わせ、人為的に妖怪を制御することで、限界を超えた生体兵器を作り上げようとしていた。 凜鬼はある酒比べで正体を失うまで酔いつぶれていた。再び目を覚ました時、薄暗い明かりの中で四方から響く読経の声のほかに感じられたのは、両脚から突き上げてくる激痛が野性を刺激する感覚だけだった。結論から言えば、機関の研究者は凜鬼の実力を見誤り、ただの山童として扱ってしまった。投与された薬の量も防護措置もまるで足りておらず、手術が両脚を切断したところまで進んだ時点で凜鬼は目を覚ましてしまう。その先に待っていたのは、血と肉にまみれた大惨事だった。 数百年ぶりに味わう激痛がもたらす絶頂の中、凜鬼は両手だけでその場にいた全員を喰らい尽くし、ついでに一番値打ちのありそうなものを引っ掴んで研究所を逃げ出した。そして無意識のうちに向かった先は、息吹が営む工房の前だった。 息吹は聖マリア学園を卒業した後、以前伏見組でのアルバイトで貯めた金を元手に、帝都の路地裏で機械製作所を開いた。この場所は以前、河童の河城一郎の秘密基地の一つでもあったため、妖怪の世界でもそれなりに名が知られており、十紋も伏見真利男の顔を立てて見て見ぬふりをしていた。そんなグレーゾーンの主として、息吹は扉を開き、絶頂の後に脱力しきった凜鬼を迎え入れた。 かねてより様々な手がかりから妖怪士兵計画の存在を推測していた息吹は、凜鬼の現状をすぐに理解した。再生能力を完全に封じられた凜鬼の両脚を見て、彼女は思い切って凜鬼が持ち出してきた義肢を取り付けることにした。妖怪に有害な部品を取り除き、技師としてどうしても手を加えずにはいられない改造を施す。こうして凜鬼は、金色の光沢を放つ黒い脚を新たに手に入れた…… 手術を終えてから、息吹はようやく気づく――凜鬼が持ち出してきた義肢は、本来「腕」用だったのではないか、と。満足げに飛び跳ねる凜鬼を見つめながら、息吹はこの事実を九州の実家の鍛冶炉の奥に葬り去ることに決め、営業スマイルを浮かべながら凜鬼の礼と報酬をやんわりと断った。かくして凜鬼の両脚は、思いがけず「握る機能」を手に入れることとなった…… ちなみに、これ以降凜鬼のカポエイラはさらに鋭さを増したというから、災い転じて福となす、といったところだろうか。 凜鬼を追い、機密漏洩を防ぐため、中野機関はあらゆる刺客を送り込んだが、いずれも凜鬼によって一人残らず退けられた(あるいは喰らい尽くされた、というべきか、「退ける」の定義次第だが)。最終的には妖怪士兵計画そのものを潰してしまったことは、ひとまず置いておこう。世界がどう変わろうとも、凜鬼は相変わらず気の赴くままに妖怪としての日々を過ごしている。彼女は国家など気にかけない(大半の妖怪と同じように)。ただ、相手が付き合うに値するかどうかだけを気にかける。責任も義務もなく、ただ己の欲望のままに動くのみ。たとえその先に死が待っていようとも、彼女は迷わず一歩を踏み出すだろう。彼女は威風堂々たる山魈、海を渡ってきた悪鬼。その名を覚えておくといい。いつかどこかの路地裏の酒場で、あなたも彼女と杯を交わすことになるかもしれない。 ―― 義肢には「獅子奮迅」の刻印が施されている。どうやらこの装備のコードネームらしい。息吹は凜鬼によく似合うと思い、あえて消さずにそのままにした。彼女はその刻印の下に「兵主蚩尤に捧げよ」と焼き付け、呪力文字の対象を書き換えた。 山魈はもともと反足の妖怪であるため、人差し指・中指・薬指の指先で立つのはごく自然なことだった。「新しい脚のほうが前のよりいいわ」――そう率直に語る凜鬼の言葉を聞いて、息吹も自分の見落としを多少なりとも水に流すことができた。